自己紹介(独立まで)

私は1958年11月25日に札幌市に隣接する札幌郡広島村で生まれた。

広島村は現在「北広島市」となり、札幌市のベッドタウンとして発展し、日本ハムファイターズのホームグラウンドの建設予定地として一躍有名になった。

私は2018年11月に還暦を迎えた。

私の父は農林省の技官で、馬鈴薯原々種農場というところで働いていた。全国を転々と転勤していたのだが、例外なく全て「超」がつく田舎である。

私が3歳の時に長崎県南高来郡瑞穂村に移った。
5歳の時に保育園に通い始めた。岩戸保育園という。
その時、幼いながら、自由な生活は終わるのだと思い
悲しくなったことを今でも憶えている。

保育園まで約3km歩いて通った。
行きは下りであるが、時々道草を食って遅刻した。

この頃はカエルが好きで、親にはカエルの本、カエルのレコード、
カエルの絵がついたシャツ、緑色のシャツ等を買ってもらった。

保育園の給食には必ずコッペパンが出た。
「パンはどうやって食べるの?」と先生に毎日質問した。
先生は毎日、「割って食べるんだよ」と教えてくれる。
私は、何故食べ方を変えないのか不思議でたまらなかったが、
先生は、この子は何故毎日同じことを質問するのか不思議だっただろう。
それでも毎日毎日怒りもせずにつきあってくれた先生には感謝している。

1年間の保育園生活の後に、隣接する岩戸小学校に入学した。

算数と理科が大好きだった。
逆に嫌いだったのは社会科だ。
僕たちは子供なのにどうして大人のことばっかり勉強するの?と疑問を持っていた。

小学校1年生の夏休みに、母の実家がある札幌に行った。
祖父は元々大工で、その後工業高校の教師をして、その時は引退していた。
家の庭には工作小屋があり、工作を教えてもらった。

小学校2年生の11月に北海道に引っ越すことになった。
引越先は生まれた場所である広島村である。

九州から北海道への移動は長い旅だった。
大阪までは夜行の急行列車での移動であった。
父にねだって新幹線にも乗せてもらった。
後に鉄道ファンになるきっかけとなった旅である。

転校した先の広島東部小学校は家から8kmほどあり、
駅まで2km歩いてから汽車に乗った。

北海道の小学校では体育の授業でスキーがある。
スキーの授業といっても学校は何も教えてくれない。そもそも滑れることが前提である。
そういう事情で結婚するまでスキーは苦手だった。

3年生の4月から同じ村内で別の小学校に転校した。
大曲小学校は1学年1クラスの小さな学校であった。
ここでは随分といじめられた。
最悪だったのは4年生と5年生の2年間である。
何しろ一番のいじめ役が教師だった。

冬の北海道では通学が非常につらかった記憶がある。
まず、雪が深い。
歩いていると長靴に雪が入り、解けて水になると靴下が濡れてとても冷たい。
吹雪の時は雪が横なぐりで、ほおから耳にかけて冷たくなる。
そうやって家に帰るとすぐに薪ストーブにしがみつくようにして暖をとった。

野球を始めたのは小学3年の時であった。
始めたきっかけはもちろん巨人の星である。

中学校は小学校に隣接する大曲中学校に進んだ。
私は学校の成績が良かったので、少しずつ注目される存在になっていた。

部活動は相変わらず野球をやったが、
当時は休日にも練習をするということはなかった。

中学2年の夏に父の転勤で真狩村に引っ越した。
真狩中学校には家から通えなく、村の公民館を改造した寮に住むことになった。
そのような事情で14歳の時に親元を離れた。

毎週土曜の午後に迎えに来てもらい帰宅して、
日曜の夕方に寮に戻る生活を繰り返した。

自宅は羊蹄山の麓で、なにしろ間近で大きかった。
その頃は登山に興味は無かったので、羊蹄山に登る機会は未だにない。
羊蹄山麓は豪雪地帯で有名であり、当時は積雪量が3mになることも珍しくなかった。

大雪が降ると道路が閉鎖されるので、寮から自宅に戻ることができなくなるが、
そこは雪国のこと、雪上車が迎えに来てくれた。
雪上車は道路とは無関係に走る。
雪上車に乗っていると一面が大雪原であり、吸い込まれるような感覚だった。

当時はこんな所に住まされて何と不幸なのかと思ったが、
今思えば、こんな貴重な経験をさせてくれためぐり合わせに感謝するばかりである。

一度親元を離れると勢いがつくものだ。

高校進学は最初から親元を離れることが前提であった。
中2の夏頃から札幌の公立高校ではなくて、函館ラ・サール高校に行こう
ということになった。
今思うと自分の意思ではなく、親の意向だったようだ。

函館ラ・サール高校には立派な寮があった。
寮は学校と廊下でつながっており、昼食も含めて3食を寮で食べる生活であった。
1年生のうちは寝室が大部屋で、体育館くらいのスペースに
2段ベッドが並んでいた。
勉強する部屋は別に自習室と呼ばれる部屋があった。

入学してすぐに野球部に入ったが、顔面にボールを受けメガネを壊した。
そんなことがあって、しばらくして辞めた。

2年生になると4人部屋に入れる。
よく深夜や早朝に大学受験ラジオ講座(旺文社)を聴いて勉強したものだ。

3年生になる時に寮を出て下宿した。下宿先は仕出し弁当屋であった。
ひとり部屋で勉強したいという我がままからである。
今思い出しても、勉強しかしていないような高校生活であった。

函館ラ・サールでは東北大、北大を希望する生徒が多かった。
私はみんなが行くところには行きたくないという気持ちが強く、大阪大学を志望した。
学部の選択では、工学部ではなく理学部高分子学科を選んだ。
その頃は工場で働くことが汚いと考えたからだった。
そんな私がプラスチック成形加工のコンサルタントとして現場の技術指導をするなんて
皮肉なものである。

高3の夏休みを使って、青函連絡船と寝台特急で大阪に視察旅行をした。
北海道から来たわけだから、その暑さは半端ではなかった。
とにかく暑くて空気が薄く、息が苦しかったのを憶えている。

冬休みには京都にある学習塾の冬期講習に参加した。
宿泊場所は相国寺で、同志社大学の近くだ。
さすがに京都の寒さには閉口した。
寺だからとにかく風通しが良い。
北海道では屋外と屋内が区分けされていたが、京都の寺ではその区別が無かった。

4月には晴れて大阪大学に入学した。
住んだのは6畳のアパートで小さな炊事場がついていた。
そうして自炊と外食の生活がはじまった。

大学に入る前はうどんが嫌いだった。
ところが大阪に来てうどんが好きになった。
アパートに近い阪急蛍池駅のそばに創作うどんの店があり、よく通った。
そして作り方を教えてもらい、夏休みに帰省した際には家で家族にごちそうした。

大学時代にはまっていたのはプロ野球観戦・応援である。
実は小学生の時にNHKの野球中継で見た近鉄-阪急戦で鈴木啓示のファンになっていた。
そこで大阪に来たのを機会に球場にはせっせと通った。
近鉄ファンは近鉄バファローズが消滅するまで続けた。

大学での勉強はあまり熱心にしていなかったが、大学院に進むことにした。
大学院での研究テーマは磁性を持つ高分子の開発で、
当時は海の物とも山の物ともつかないテーマであった。
幸い私の研究を引き継いだ後輩が成果を出し、その後はひとつのブームになった。

大学院の1年目の春に奨学金という名目の就職活動を行った。
最初に教授の推薦で受けた三井東圧化学はあえなく撃沈。
その後教授からは出光石油化学を勧められたが、断って三井石油化学を受けた。
教授には推薦状を書いてもらえず、助教授の先生に書いてもらった。

三井石油化学工業に入社すると、
すぐに子会社である三井ポリケミカル(通称三ポリ)に出向となった。
三ポリでは接着剤用樹脂の開発を約7年続けた。

接着剤の原料になる樹脂を押出機を使って化学変性してつくり、
特性を調べて資料にして、お客さんに紹介するというのが仕事の流れで、
いろいろな会社を訪問した。

主要顧客であった旭化学合成の顧問であった畑先生(東工大名誉教授)には
接着理論のいろはを教わった。

入社2年目の時に結婚した。
妻は同い年である。
新婚旅行はバンコクとシンガポールに行った。
当時は新婚旅行でタイに行く人はほとんどいなかった。

結婚してからは随分と人生が変わった。
英語をまじめに勉強し始めた。
ジョギングを始めた。
登山を始めた。
いずれも妻の影響であるが、最初は大変だった。
この後会社の山岳部に入って活動したり、ウルトラマラソンを走るようになる。

平成になって長男が生まれた。
翌年に社宅から6kmほど離れた市原市光風台に注文で家を建てた。
家が完成する前に本店の営業に転勤になった。
場所が東京霞が関なので、会社の寮(三鷹)に入った。
週末は市原市の社宅に帰るのだが、息子が自分のことを憶えていないようでつらかった。
12月に家が完成すると、自宅から通勤するようになった。
片道2時間10分である。

営業の仕事は楽しかった。
営業には5年いたが、自分の時代を築くことができた。
それまでは「その他」扱いのセグメントを担当したが、
サブセグメントに分けて戦略製品を投入し、利益を拡大した。
お客さんからもいろいろと学ぶことができた。
最後には1つのプロジェクトで社長表彰も受けた。

二男が生まれたのは私が東京勤務の平成3年で、
妻の出産の時も会社に行っていて、すぐに帰ってこれなかった。

営業で5年間過ごした後、三ポリの研究に戻った。
今度は高分子材料の基礎研究であり、当時共同研究先であった姫路工大の
社会人ドクターコースに入学することになり、博士号をもらった。

趣味の登山は結婚してから始めた。妻と一緒に南アルプスを中心に縦走した。
子供ができてからは会社の山岳部で活動した。
市原市山岳協会では市民登山の引率もやった。
日本山岳耐久レースや富士登山競争、富士登山駅伝にも出た。
富士登山競争では、頂上は寒くてすぐに下山したが、下界の景色は不思議だった。
アルプスの山やまは遠くに小さく、しかも低く見える。何ともつまらない景色だった。
その頃から登山のためのトレーニングとしてのランニングが
趣味のマラソンに変わっていった。
1997年に初めてフルマラソンを走り、1999年には100kmマラソンに挑戦した。
100kmマラソンは2018年まで19回完走している。

2000年に同じ系列のグランドポリマーに異動になった。
この時初めてプラスチックの成形加工技術の開発を担当するようになった。
これが現在のコンサルタント業のきっかけである。

グランドポリマーは三井化学と宇部興産の合弁会社であったが、
異動して2年後に合弁を解消した。
三井化学と住友化学の統合話があり、先行して三井住友ポリオレフィンが設立された。
私は住友の研究所内に席を置き、住友の文化を吸収した。
私はチームリーダー(課長)として発泡成形等の開発を指揮した。

三井と住友の統合は破談になり、三井化学の石化研究所に戻った。
そこでは自動車のバンパー用材料の設計等を担当した。
2004年に機能材料研究所に異動になり、再び発泡成形の研究を指揮した。

その頃長男は幕張総合高校に通っていた。
今後東京の大学に行くと通学が大変との思いから
幕張のマンションを購入した。

2006年には本社の企画部門(新橋)に異動になった。
今度は幕張からの通勤であった。
京葉線の電車を終点の東京で降りて、銀座を歩いて新橋まで通った。
ちょうど良い運動であるし、朝の銀座の光景も新鮮であった。
担当した業務は、事業部のWEBサイトの運営と展示会の企画であった。
WEBでは技術的な質問への返答や製品紹介ページの構築を行った。
展示会ではパネルの表現や文言の指導を行った。
なんちゃってコピーライターだったわけだ。

その仕事を1年半続けた後に小野産業から技術開発部長で来てほしいというオファーがあり
出向で行くことにした。
グランドポリマー時代に共同開発したパートナーである。

小野産業は中小企業であり、人材不足であるため何でもやった。
技術開発の他に、ライセンス契約書のチェック、日英翻訳、WEBサイトの企画
展示会の企画、特許・商標の維持管理等である。
呼んでくれた社長が解任されるまでは楽しかった。

技術士試験は2008年に化学部門で合格した。

小野産業にはそのまま定年まで居ることもできたが、
2010年に出向元の三井化学を退職して、コンサルタントとして独立した。